石見銀山

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世界遺産に登録が決まる
この記事は2007・5月に作られたものですが、その後石見(いわみ)銀山遺跡は2007・6・28世界遺産に登録がきまりました。
編集子補

 

私の故郷 シルバーラッシュの夢の跡

石 見 銀 山

島根県大田市

生活環境科 岩崎 道夫

島根県の中央に位置する石見銀山遺跡は、今世界遺産に登録の準備が進んでおります。
その昔、山から切り出した木に白い色が付着していた、海から山を見たら白く光っている、などから発見された銀山ですが、16世紀の大航海時代には、世界で知られた
プラタレアス− 銀の島、それが日本の石見銀山でありました。この時代、世界の銀生産高の3分の1(年間約200トン)は、良質の日本銀(ソーマ銀)でアジア貿易の主軸をなしていた程、銀は露頭堀の状態でどんどん取れた様です。
 しかし、露頭堀も採り尽くし間歩(坑道)堀と成って、生産量も次第に低下して来ました。権力者も戦国時代の大内氏、尼子氏、毛利氏と権力争いの後、徳川家康の時代は直轄地(天領)に成り、坑道堀が大きく改善されて年間約1万貫(38トン)と増産される様に成りました、その銀は、江戸幕府の強大な権力基盤を支えて来たものと考えられます。坑道掘も次第に銀から銅へと変化して来ましたが、第一次世界大戦争の銅価格低下を背景に大正12年(1923)休山を迎えました。
 石見銀山は、どうして、あの佐渡金山より世界遺産の価値が有るのか。
それは現在でも、当時の人力作業跡が、山の中に600以上の間歩(坑道)や露頭掘の跡、精錬所跡、また鉱山労働者の住居跡(江戸時代には、銀山柵内[]として保護されていた)が、竹薮や雑木に覆われて、手づかず全てが残っている事です。 


羅漢寺と五百羅漢

[]銀山柵内とは銀の採掘から精錬まで一貫して行われた地域で、特に鉱山労働者 、鉱石を採掘する「銀堀師」、岩石を外に運ぶ「柄山負」、雑用担当の「手子」、精錬労働者の吹屋(吹大工、灰吹師、吹差師)等、銀の生産に従事する労働者及び家族一同が柵内で生活し、銀山御取囲(病気の時に支給される)、御勘弁味噌(保養薬として支給される)、子供扶養米(子供に支給される)など柵内は、労働者の保護政策と銀の生産管理が行われていました。

 現在、石見銀山の観光は、銀山で繁栄した大森の町並み、石見銀山資料館、五百羅漢等社寺、銀を輸送した靹ケ浦街道、温泉津沖泊街道、沖泊(港)ですが、肝心の銀山柵内での観光坑道は、龍源寺間歩が一カ所有ります、江戸初期に開発された代官所直営の御直山の一つで、横相と呼ぶ鉱脈に直交する「水平堀」、鉱脈に沿って掘った「ひ押堀」、水抜きの垂直方向に掘った「竪坑」 を、

精錬所跡

当時の儘の姿で見る事が出来ます。残念な事が、幸いか、当時の他の多くの露頭堀、間歩群などは竹薮に覆われて見られませんが、精錬跡では、段々畑の様な所で鉱滓(カラミ)を草むらで拾う事が出来ます。

 石見銀山には、これが世界遺産と一目でわかるものは何も見当たりませんが、銀山柵内の間歩等や大森の町並み、沖泊の鼻ぐり岩など、それぞれの背景を理解し、観察力と想像力を高めて観光すれば面白い所です。山陰は、魚も美味しいです。

筆者 (龍源寺間歩にて)